FRONTIER JOURNEYとは

FRONTIER JOURNEYでは、様々な領域で活躍する「人」に焦点を当て、
仕事への想いや人生哲学を深くお聞きし、私たちが大切にしている「利他の心」や新しい領域にチャレンジし続ける「フロンティア精神」についてお伝えしています。
人々の多彩な物語をお楽しみください。

Vol. 060

娘のお弁当に添えたイラストメッセージが
世界進出のきっかけに
アーティスト、ケビン・ライオンズ

アーティスト・デザイナー
ケビン・ライオンズKevin Lyons

2024年9月19日

ニューヨーク州ブルックリンを拠点として活動するケビン・ライオンズ氏は、アートディレクター、デザイナー、タイポグラファーという多彩なアーティストであり実業家でもある。30年以上ストリートアートとカルチャーにかかわってきた彼の描く「モンスター」はカラフルでエネルギッシュ。世界の名だたるストリートブランドとコラボレーションしたアイテムはいつも人気を博している。
出会った瞬間から満面の笑顔とポジティブな空気感で、周りにいる人みんなをハッピーにしていくライオンズ氏。アーティストそしてデザイナーとして、また実業家としてアパレル事業などに取り組む彼のジャーニーはどのようなものだったのだろうか。そして、世界中で愛されている「モンスター」がどのように誕生したのか。2024年8月にオープンしたばかりの『1/1 HARAJUKU “K”』にて話を聞いた。

小さな頃から“好きなこと”にこだわり続けて、
今の自分がいる。

「絵を描き始めたのは本当に小さな頃。描くことが遊びって感じで、学校に入ってから今に至るまで、運動するか、絵を描くか(笑)。どんな時もとにかくずっと絵は描いていたよ。学校でも〝ケビンは絵が上手だね〟と言われるようになって、それが自然に自分のアイデンティティになっていき〝好きなこと〟が〝得意なこと〟に変わり、ますます夢中になってのめり込んだんだ。ずっと、苦にならずに続けられることって、そういうものでしょう?」
ライオンズ氏は幼少期をそう振り返る。9、10歳くらいの頃はアスリートのように絵に没頭して、大量の作品を描いていたのだという。

「それが原点だったかな。自分の中でロゴやキャラクターをあれこれ考えたりしてね。自分の履くスニーカーのデザインやスポーツチームのユニフォームとか、本当にたくさん描いたよ。そこから興味が音楽にも広がっていったんだ。音楽にハマると楽曲をコピーしたりするでしょう? 何かをマスターしようと思ったら、真似から入ることも多いと思うけど、それはある意味いいトレーニングになったかな。デザイナーになりたての頃は、好きな音楽アルバムのジャケットを色鉛筆やマーカーでよく描き写すようになっていたんだ」

ライオンズ氏は子どもの頃に見たテレビ番組にもなったキャラクターたちに大きな影響を受けたという。『セサミストリート』『ルーニー・テューンズ』『ガーフィールドと仲間たち』『マペット・ショー』。その中でもセサミストリートのマペットのデザインを手がけたジム・ヘンソンの影響を受け、彼の大ファンに。“マペット”という言葉は、マリオネットとパペットを組み合わせたジム・ヘンソンによる造語だ。
「ジム・ヘンソンのように、絵を描き、人形を操り、ショーやキャラクターを創り出す人を知ったことで、マペットが登場する人形劇に夢中になって、そこからインスパイアされてキャラクターたちを描き始めたんだ。ヤンチャで、風変わりで、コミカルで、ドタバタ劇やお調子者っぽいキャラクターたちのお話が大好きだったんだ」
絵を描くことが好き、スポーツが好き、そして音楽が好き。ただ〝カワイイ〟というだけでなく、そこにちょっとしたクセがあるもの。強い想いがあるもの。そんな〝好き〟という気持ちが、グラフィックデザイン、イラストレーション、キャラクターデザインの分野に広がり、現在のアート活動へとつながっていく。

自分はこれで食べていけるのか?
不安を感じたこともあった

好きなことを生業にする人にはその気持ちが試されるようなタイミングが幾度となく訪れる。ライオンズ氏の場合 “美術界のハーバード大学”と称される「ロードアイランド・スクール・オブ・デザイン(通称RISD)」に入学してすぐ、そのタイミングは訪れた。
「自分の実力が周囲のレベルに合ってないのではないかと悩んだこともあった。RISDの学生はみんな優秀で、ちらっと見ただけでも〝あれ? あの人すごい! 俺は全然だめかも〟なんて、ほかの学生の実力に圧倒されちゃうんだ。でも、落ち込むことがあっても、ここを耐えればきっと上手くいくと前向きにとらえて、学校を辞めようとは考えなかった。元々の性格かもしれないけれど、自分はかなり粘り強くてやる気があるタイプ。得意なことを見つけて、なんとかしようと思ったんだ」

両親を心配させないためにも、大学の進路決めの際は、アートで生計を立てることについてきちんと将来を見据えた説得が必要だった。大学での学びをいかせる建築家やグラフィックデザイナーなどの職業に就き、そのために必要な分野を専攻すると。そして建築家になるのは難しいと判断し、グラフィックデザイナーになるために学ぶことにした。
「もともとデザインが好きで、自分でいろいろ制作をしていたから、授業はちょっと退屈だったよ(笑)。タイポグラフィーを描いていても、なんとなくつまらなく感じてしまうんだ。そんな日々の中で、これまで自分がやったことのない何かを得たいという気持ちがわいてきた時に、 ジム・ヘンソンの番組やアニメのことを思い出した。自分がやりたいことってああいう作品に携わることだったんじゃないかって。そして、グラフィックデザイナーを目指すのは辞めて、アニメーションと映画専攻に転向し、RISDを卒業したんだ。今ではほとんどがデジタル化されているけど、当時のアニメーションはすべてのフレームを手描きで行っていて、手仕事の感じがとても面白かったんだ」

新しいチャレンジをしても
なぜかグラフィックデザインへと連れ戻される

RISDを卒業し映像の道に進んでも、ライオンズ氏は彼のデザインが好きだという人たちのために、クラブのフライヤーやロゴデザインなどを続けていた。
「1980年代中盤、ハードコアやパンクにハマり、さらにストレート・エッジ*の考え方に共感したんだ。だから今でも飲酒や喫煙はしないしベジタリアンを貫いているよ。それからジャズやヒップホップも好きになっていった。大学時代にはアシッド・ジャズが流行っていたこともあって、ニューヨークのクラブで知り合った人たちのイベントフライヤーやお店のロゴデザインをたくさん描いたよ」
デジタル化前だったため、タイポグラフィーをはじめ、イラストやロゴデザインをひたすら手描きで制作していたライオンズ氏。その経験が彼の強みとなっていったという。
ちなみに、ニューヨークの伝説的なクラブ「GIANT STEP」のロゴも、当時のライオンズ氏の作品で、さらに「GIANT STEP」のアーカイブには今も彼のビデオがリストアップされている。
「映画監督になるつもりだったけれど、この時期にたくさんのデザインを手がけたことで、映画の世界で成功しなかったとしてもデザインで食べていけるという自信がついたんだ」

*ストレート・エッジ:80年代のハードコアバンドMINOR THREATのイアン・マッケイが提唱した「DON’T SMOKE,DON’T DRINK,DON’T FUCK」の思想。彼らのバンドが全員未成年であることを理由にライブハウスでの演奏を拒否されたことから、飲酒やドラッグなど不純なイメージがロックの潮流だったことに対するアンチテーゼとして掲げられた。

『スポンジ・ボブ』などのアニメーション作品で有名な映像会社の「ニコロデオン」に就職したが、デザインの腕を見込まれ、新番組の企画書やロゴ制作に従事する日々。そんな中、ふと我に返る。
「あれ? 映画を作りたかったのに、なんでずっとデザインをやってるんだっけ? まるで、やる気のある元気いっぱいの子どもが部屋に閉じ込められているような状態さ(笑)。そこから脱しなければと会社を辞め、また自分がやりたいことをできる環境を求めはじめたんだ」

今でこそ映像コンテンツはひとりで作ろうと思えば作れる時代だが、当時はたくさんの人が制作に携わらなければ成り立たなかった。
「グラフィックデザインはひとりで完結できるので、その点はやっぱり自分の性に合っていたのかも。好きだったし。そこで、もう一度デザインについて学び直す必要があると感じて『カリフォルニア芸術大学』に行くことを決心したんだ」

当時、「カリフォルニア芸術大学」では伝統的なグラフィックデザインのバックグラウンドを持たない人材を求めていた。多様な仲間がともに学ぶ環境で、ライオンズ氏は若い世代が会社を立ち上げ、新しいブランドを創造していくシーンを目の当たりにした。またスケートカルチャーやグラフィティカルチャーなどに触れ、〝やりたいことを貫く〟自らの信条に対する自信を深めていった。そして子どもの頃から好きだったスニーカーのデザインをしたいと、「NIKE」のデザイナーに就任する。

好きを貫いた先に、家族へのメッセージとして
描いたキャラクターが世界へと羽ばたいた

ずっと夢だったスニーカーデザインの現場「NIKE」。しかしライオンズ氏はそこにもとどまろうとはしなかった。
「だいたい2年周期で職場を離れているんだけど、社内にいるよりも社外の人間として業務に携わる方がより多くのことができると気づいたんだ。だからいつも安定よりも新たなチャレンジを選んでしまう(笑)。年齢を重ねても、やりたいことに夢中になり、ついやりすぎてしまう。同じような毎日が続くと環境を変えたくなるし、常に前進したいという気持ちになる。自分自身に刺激を与え続け、変化を恐れない、そんな生き方をしているなと感じるよ」

その後、ストリートブランドの「Girl Skateboards」のアートディレクターをはじめ、「Stussy」のデザインディレクターを歴任したのち、自身のブランド「Natural Born」を立ち上げたライオンズ氏。そんな環境から〝モンスター〟が誕生したのかと想定していたのだが、実はそうではなかった。

「私にはふたりの娘がいて、娘たちが〝モンスター〟と呼ぶキャラクターを昔から描いていたんだ。もちろん娘たち以外には誰にも見せず、Tシャツのモチーフにすることもなかった。たまたま長女が幼稚園でお弁当を食べない時期があり、小さな紙にモンスターを描いて短いメッセージと一緒にお弁当に入れるようにしたことがあったんだ。〝このモンスターのお弁当を食べたら何か面白いことが起きるよ!〟なんてメッセージも付けて。そんなことを続けていたらいつの間にか先生が、クラスメイト全員に読んで聞かせていて、みんながお昼の楽しみにしてくれていたらしいんだよね(笑)」

何気ないエピソードだが、それがなぜ世界的なヒットにつながったのだろう。それは、1本の電話がきっかけだった。かけてきたのは、パリの伝説的なセレクトショップ「コレット」のオーナー、コレット・ルソーだったのだ。

「調子はどう? という感じの突然の電話だったよ。イベント出展のお誘いで、もちろんやりたいよ! と返事をしたものの、連絡をもらったのは開催まで残り2週間というタイミング。そんな場所で見せられる作品はないし、どうしたらいいかをコレットと相談する中、ふと〝 あのさあ、目の前にユニークなモンスターのキャラクターがいっぱいいるんだけど〟って言ってみたんだ。そしたら、コレットからそれでコラージュでも作ってみる?”って提案されたんだ」
パリの「コレット」は先鋭的でクールで異彩を放つセレクトショップだ。そんな空間で自身のアイテムが扱われたら素晴らしいという思いと、それが娘のお弁当に添えていたイラストメッセージのモンスターでいいのかという迷いがあったというライオンズ氏だが、「数あるモンスターを作品のモチーフにして、えいっ! という感じで送ってしまったんだよね」。
コレットへ作品を出展したことで、思いがけず著名人とのつながりもできたという。
「多くの展示作品の中から、ダフト・パンクのマネジャーを務めていたこともあるDJのペドロ・ウィンターが〝ユニークですごく面白いね〟と、私の作品を買ってくれたんだ」

「コレット」は、百貨店が主流だった1990年代のフランスでコンセプトストアを根付かせ、無名の新進アーティストの起用をはじめ、ファレル・ウィリアムスやカニエ・ウェストなどの有名アーティストとのコラボレーションにより、世界中から注目を集めていたセレクトショップ。モンスターのキャラクターは、この「コレット」でのコラージュ作品がきっかけとなり、オーナーがライオンズ氏とのコラボを提案、モンスターたちは一気に世界中を飛び回ることとなった。

アートが地域の一部となって、
ふとした笑顔につながっていくことが幸せだと思う

「モンスターたちがどんどん有名になっていったけど、自分はあまり有名になりたいとは思っていなかった。お金や名声を求めてモンスターたちを描いていたじゃないからね。理想は、キャラクターたちが時代を超えて存在し続けること。誰が描いたかなんて関係なくて、キャラクターそのものの魅力で愛されて、見た人が笑顔になればいいんだ。優れたキャラクターは、作家の思惑を超えて愛されて残っていくものだと思うし、モンスターたちもそうなってくれたらいい。『1/1 HARAJUKU “K”』でのミューラルも、一過性ではなくコミュニティの一部になるということがうれしい。世界のほかの都市と比べても東京にはあまりミューラルがないから、そこにも面白さを感じるよ」

新しいこの建物とともに、アートが成長する。自身のモンスターを〝kawaii〟でひとくくりにされることに当初違和感もあったが、日本の文化を知り、日本の“カワイイ”には尊敬の気持ちや、それを本当に愛しているという感情が含まれている言葉なのだと感じ取ったと言う。
「ここで私がミューラルを制作していると、仕事中の人も、ランチタイムの人も、コーヒーを持って歩く人も、いろいろな人がたくさん通るんだ。そして深刻な表情で『1/1 HARAJUKU “K”』に向かって歩いてくる人がいても、モンスターたちに気づいた瞬間、微笑んで〝カワイイ〟とつぶやいてくれる。それはとても楽しくてスペシャルなこと。ここにいるモンスターたちは、みんなが上機嫌なわけじゃないし、感情や表情はさまざま。だから、ここを通る人がモンスターたちの中に自分自身を見つけてくれたらいいな。友達を見つけるように〝これはコーヒーを飲む前の私だ〟とか〝これは土曜の夜の私だ〟とかね」

東京の夏を“スーパーカラフル”といい、今の自分の気分にぴったりだったと語ってくれたライオンズ氏。彼の作品が原宿という街と『1/1 HARAJUKU “K”』という場を通して、ハッピーな時間を重ねていけるよう見守っていきたい。

Next Frontier

FRONTIER JOURNEYに参加していただいた
ゲストが掲げる次のビジョン

生み出したキャラクターを息づかせ、時を経て広く長く人々に愛される未来。そして父親としてもふたりの娘のために資産としてつないでいくこと。
編集後記

今回取材させていただいたケビン・ライオンズ氏は、FRONTIER JOURNEYにご登場いただいた方々の中で4人目のアーティストです。アーティストの方々はニューヨークやパリなど、活動拠点はさまざまですが共通点がありました。それは自らの人生に真摯に向き合う姿、そして周囲に対する寛容でインクルーシブな人柄です。
今回ライオンズ氏が語ってくれた、幼い頃から好きだった“描くということ”にずっとこだわり続けてきたジャーニーは羨ましくも感じるものでした。葛藤の度に次の高みを目指す前向きな姿勢、諦めない強さも彼の今をつくってきたのだと思います。そしてパンクからジャズ、ストリートカルチャーなど時代とともに作品を創り出してきた彼の人間性には、近年注目を浴びているアーバンスポーツから見えてきたストリートカルチャーの価値観と重なる部分が多くありました。
自らの人生を語る彼の言葉は、飾り気のないストレートさで、周囲にいる人たちもあたたかな気持ちにさせてくれるものばかり。取材後、再度モンスターたちを目にし、彼自身もモンスターの中に存在しているとふと笑顔になりました。
1/1 HARAJUKU “K”のミューラルが、これから原宿を訪れるたくさんの人たちに、末長く愛してもらえる場所になることを願っています。

いかがでしたでしょうか。 今回の記事から感じられたこと、FRONTIER JOURNEYへのご感想など、皆さまの声をお聞かせください。 ご意見、ご要望はこちらfrontier-journey@sunfrt.co.jpまで。

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