Vol. 034
人生は、地続きの旅、縁の旅
夢を追い、駆け抜けた少女が
その先に築いた異色のキャリア
経済キャスター
江連 裕子Yuko Ezure
2023年5月19日
Keywords
「反骨精神」、「背水の陣」。取材中、彼女の柔和な表情には不似合いなたけだけしいキーワードが飛び出してきた。経済専門のフリーキャスターとして活躍しながら、同時に複数の企業で社外取締役や監査等委員などを務める江連裕子氏。華麗な経歴には目を見張るばかりだが、緻密なキャリアプランの結果かと思いきや、「すべてもともと目指していたものではなかった」と明かす。
彼女の人生の哲学には、“有限こその強み”、“利他からはじまる幸せの輪”、そして、少し疲れたときには「HIYORIオーシャンリゾート沖縄」を訪れ、“心の休養と仕事を両立しながらリラックスするひととき”があった。
限られた情報から、素直に選び取った進路。運命は、思わぬきっかけから変わる
那須塩原ののどかな環境で生まれ、高校卒業まで同地で過ごした江連氏。ときはインターネットの普及以前、情報源といえばテレビや新聞が主だった。都会とは物理的な距離で隔絶されており、「あらゆる選択肢に限りがあった」と、少女期の環境を振り返る。
「習いごとといえば近所のそろばん塾と合唱、スキーしかしていませんでしたし、『将来の夢は?』と聞かれても、周りにいる大人は地元に勤めている人がほとんど。世の中にどんな職があるかすら、分からなかったんですよね。もちろん、テレビで観るアナウンサーという職業が存在することは知ってはいたし、テレビや雑誌の華やかな世界にぼんやりとした憧れはありましたが、リアルには感じられなかった。子どもながらに大人になったら地元の銀行か資格を取得するなら税理士かな、と考えていました」
限られた選択肢の中でも、特に銀行員、税理士という金融関係の職に思い至ったのには、理由がある。子どものころからテレビでニュースや政治経済番組が身近にあり、金融情報に触れる機会が多かったこと、さらに地元が選挙活動のさかんな地域だったことも影響があった。
「副総理まで務めた有名議員の地元だったんです。それで、ニュース番組で取り上げられる選挙の話題が子供心にも身近なトピックでした。そんなところからニュースには割とすんなり入っていって、当時さかんに報道されていた貿易摩擦、ドル円といった経済の話題も自然に受け止められる。『円高ってどういうこと?』とか、『貿易と為替ってどういう仕組みなのかな?』とかが気になってくるわけです。加えて、習っていたそろばんが大好きだったので、その延長にある職業として、銀行員や税理士が浮かんだんでしょうね」
親に大学進学は反対されていたので、高校卒業後に進んだ短期大学では、税理士の受験資格を得るために経済学部を選び、さらに経済専攻のまま4年生大学に編入。結果として地元を出て上京するが、アルバイト先での偶然の出会いから、運命が動いていく。
「大学時代、出版社でアルバイトをしていたところ、女子大生写真館という企画があり、運よく選んでいただきまして。その写真がきっかけで、いくつかの事務所からお話を頂戴し、そのときに『アナウンサー向きの声だね』と言われたんです。そんなこと、想像もしていなかったんですが(笑)」
思い返せば、地元でいつも食い入るように観ていたニュースを届けてくれていたのは、アナウンサーだった。自分がその画面の向こう側に立てるかもしれない――。江連氏にとって、ふいに差し出されたそのまぶしい選択肢は、まさに“福音”。在学中に、フリーアナウンサーをマネジメントする事務所への所属を決意した。
市場分析し、自分の強みをさらに磨く。背水の陣で生き急いだ20代
銀行員というかたい職業を目指していた少女が、突如スカウトされ、アナウンサーの道へ。一見、華々しいキャリアへの進出だが、それは決して浮かれた選択ではなく、冷静な自己分析の上だった。
「アナウンサーとして何が自分の武器になり得るかは徹底的に考えました。雰囲気ならもっと華やかな人がたくさんいる。英語も、帰国子女の方には勝てない。スポーツに詳しいわけでもない。でも、子どもの頃から興味を持って深めてきた経済なら、アドバンテージがある、という試算がありました。まずは30歳までに経済キャスターになることを目標にして、この道に進むことを決めました」
しかし、経済という武器ひとつで生き抜くためには、知識がまだまだ足りない。
さらにその分野について理解を深める必要があると考え、アナウンサーを選択する一方で、同時に大学院へも進学し、二足のわらじをはくことを決めた。
「アナウンサーとしては、キー局への就職は叶わなかったんです。でも、そこで『じゃあ辞めよう』とはならなかった。私がなるべきは経済キャスター。経済に特化したニッチなキャスターになろうと決めました」
江連氏の選択の軸にあるのは「経済」。決してぶれないその軸と、さまざまな計算と覚悟が実り、新卒の22歳にして、TBS「ニュースバード」でデビューを果たす。新人アナウンサーとして夜勤や泊まりがけの激務もこなしつつ、同時に修士号取得を目指し大学院に通うというハードな毎日だった。
当時の自分を、江連氏は「人の倍の速さで生きていこうって思っていたんでしょうね(笑)」と、振り返る。
「常に背水の陣という思いがあったので、相当焦っていました。会社員だったら年次や努力で給与が上がりますが、フリーランスだとそれ以前に仕事を失う可能性との闘いなのです。チャンスがめぐってきたときに100%の力を出せるように、常に素振りをして準備をしておかなければ、という思いがありました」
20代という遊びたい盛りの時期に、そこまで冷静に状況を分析し、わき目もふらず打つ込めた原動力とは、いったい何だったのだろうか?
「子どものころからずっと『常に何かが足りなかった』から、なんだと思います。自分で稼いだお金で好きなことや勉強を自由にしたいということへの強い思いがありますし、東京でうまくいかなかったから地元に帰るという未来はなかった。それは、地元になんでもあるという環境ではなかったからというのが大きい気がしますね」
想定外の不運も、チャンスに。軸さえぶれなければ、やるべきことは見えてくる
江連氏の20代はめまぐるしい。アナウンサーとして大きな舞台でデビューを果たすも、その1年後に体調を崩し、現場離脱を与儀なくされてしまう。復帰後は経済番組のお天気キャスターとして、以前よりは時間・体力ともに余裕を持って勤めつつ、大学院の勉強を続け無事修士号を取得した。
同時に、いつ経済キャスターとして声がかかってもオーディションに臨めるよう準備は怠らなかった。
「目論見に反して、経済キャスターのオーディションの声は一切かからないまま、お天気キャスターのレギュラーも終わってしまったんです。次のレギュラーをいつ取れるかわからず、一年後どころか半年先のことも見えなくなってしまって。でも、生活はしなきゃいけない。だからレギュラーが終わることがわかった時点ですぐに履歴書を書いて、税理士法人に就職しました」
周囲から見れば、「華やかなアナウンサーがなぜ」といぶかる転身だろう。しかしアナウンサーという職業ではなく、「経済」という分野にこだわっている江連氏にとって、そこに一切の矛盾はなかった。
「事務所へは、『経済キャスター以外の仕事で、もうオーディションは受けません』ときっぱり伝えました。税理士法人に就職したのは、もちろん生活のためもありますが、キャスターとしても決してネガティブな選択ではなかったんです。いつか経済キャスターの声がかかったときも、税理士法人での経験は決して無駄にはならないとも思っていました」
そんな思惑が予想以上に早く当たり、就職後、すぐに経済専門チャンネルのオーディションが舞い込んでくる。当時27歳だった江連氏に対し、応募条件は30歳以上だった。それでも果敢に挑み、見事に合格。その理由は「圧倒的に経済の知識が豊富だったから取らざるを得なかった」だそうだ。ここまでの努力が実った瞬間だった。
失うことでしか、手に入らないものがある。36歳ですべてを手放し、海外へ
念願の経済キャスターになることを、27歳にして叶えた江連氏。無我夢中で働き、以降の9年間で1,000人以上の経営者や経済界の重鎮たちへインタビューを行った日々を、「ひたすら楽しかった」と振り返る。
しかし35歳のときに、転機が訪れた。突然、日常生活が困難になるほどの体調不良に見舞われ、仕事にも支障をきたしてしまったのだ。
「全身の関節が痛んで、まともに歩けないという症状が続いて。痛み止めを飲んでなんとか仕事を続けていたのですが、原因がわからないままだったんです」
以前の自分だったら、その痛みに耐えながら、無理をして仕事を続けようとしていたかもしれない。しかし、その少し前に起きた東日本大震災という未曽有の天災が、偶然にも満身創痍だった江連氏の歩みを止める引き金になった。
「自分の人生はいつ終わってもおかしくないんだ、ということにハッと気づいたんですよね。限りある人生の中で、私のやり残したことは何だろう、と。ここまでがむしゃらに仕事や勉強はしてきましたが、その一方で後回しにしてきたことがたくさんある。その中で何が一番やりたかったか、と考えたとき、『海外に行ってみたかったな』ということを思い出して。仕事以外の時間を留学という目標に絞って勉強することにしたんです」
再び急な決断だが、その1年後には9年間打ち込んできた経済キャスターの職をきっぱりと辞め、単身、海外へと踏み切った。36歳という年齢で思い切った決断ができたのは、「自分の中で『やりきった』というひとつの納得点にたどり着いたから」と振り返る。
「体調が悪くなったのも、そのときはなんて不幸だろうと思いましたが、今思えばひとつの後押しになったような気がします。それくらいのきっかけがないと、やはり環境って大きく変えることが難しいですよね。もちろん、フリーなので一度仕事が途切れるとその後がどうなるかわかりません。それで30代半ばまで来てしまったんですが、その時は『何かを失わないと何かが入ってくることはないだろうな』と思えた。すべてタイミングですよね」
地続きでつながる人生。人との縁が、新たな道しるべに
一度区切りがついたように見えても、人生はすべて地続きでつながっている。江連氏がそのことを実感したのは、海外でゆっくり体を癒し、帰国した直後だった。ラジオの経済番組のキャスター職に復帰し、再び経済キャスターとしての道を仕切り直した江連氏に、思わぬ方面への道が拓けることになる。
「かつてキャスターとしてのレギュラーをすべて失ったときに就職した税理士法人の元上司の方から、外食企業の社外取締役のお話をいただいたんですよ。そんな道は思ってもいなかったので、本当に驚きましたし、私にできるのかと悩みました。でも、好きな事を思う存分やってきて、ここまで自分を支えてくれた人、助けてくれた人への恩返しがしたいという風に考えるようになっていたんです。苦しいときに手を差し伸べてくださった方への恩に報いるためにも、お受けすることにしました」
門外漢の自分に何ができるか。手探りでスタートした社外取締役という重役だったが、実際にはじめてみるとこれまで培ってきたキャリアや経験、人脈が、畑違いの職でこそ無二の財産であることに気づく。
「たとえば、社外取締役として意見を言うときも、アナウンサーとして鍛えられているぶん、適切なコミュニケーションができる。長年経営者の方々にインタビューをしてきて、いい時も悪い時も見てきているので、客観的な立場から意見できることも強みと感じています。フリーだから、一社の中にいるだけではわからない分、他社の事例と比較することなどもできます。それから、知識不足で困ったときも、これまでの人脈をたどれば、経営者や会計士・弁護士、教授、コンサルタント、など、助けてくれる人がいっぱいいる……というのもありがたいこと。改めて振り返ると、私、すごく恵まれていますよね(笑)」
自分の強みを生かしながら、与えられた職務に真摯に向き合う。その取り組み方が認められ、数年後、別の会社からも社外取締役の声がかかった。さらに母校の大学からアナウンススクールの講師の引き合いも得て、思わぬ方に向けて、新しい道への連鎖が続く。
「本当に子ども時代からは思いもよらない現在地だと思います。でも、同時に子どもの頃からすべてがつながっているなと。好きだったそろばんが経済につながりましたし、思い返せばアナウンサー向きの声と言っていただけたのも、合唱を習って子供の頃から発声をしていたことが大きかった気がします。無駄なことなんて何ひとつないんだなと、心から思う」
この写真は、アナウンサーの道を目指し始めた当時から使っている早口言葉の練習用のテキスト。今でも原稿を読む前には、一通りの早口言葉を声に出す練習を2回行ってから本番に備える。原稿を読む尺の目安になるストップウォッチも必需品だという。
現在、そんな多方面に活躍する江連氏の心の休養先のひとつとなっているのが、「HIYORIオーシャンリゾート沖縄」だ。
「コロナ禍で海外に気軽にいけない中で、ワーケーション先として何度か訪れているんですが、本当に素晴らしいところです。昼間、ずっと部屋にこもってPCで仕事をして、夕方に道の駅までウォーキングをするんですよ。景色がとてもいいのですごく気分転換になるので、定期的にリピートさせていただいています。散歩の途中でコーヒーを買うお店、サーターアンダギーを買うお店……など、ホテルの近隣に自分のお気に入りの場所もできました。実家に帰るような安心感がありますね」
お世話になった方々へ、恩返しを。つながりを大事に、人生の伏線を回収中
常に「経済」を軸としながら、キャスターとしての地位を確立し、社外取締役や監査等委員として得難い経験もした今、これらかの今後の人生をどう考えているのだろうか。
「今は自分自身の野心や野望はまったくないんです。人生には限りがあることも知ったので、お世話になった方へ早く恩返しをしたいという気持ちが一番強い。30代まではがむしゃらに目の前だけを見て走り続けてきましたが、40代からは、『恩返し』がキーワードです。周囲を見まわして、恩返しの機会がめぐってきたら自分に何ができるか考えながら日々を生きています」
私利ではなく、誰かのためにという思いは、巡り巡って自分自身にもかえってくるものということも知った。
「ある独立行政法人のお仕事で、世界に向けた情報番組を配信しているのですが、思えばそれは20年前のテレビ番組でご一緒したディレクターさんとのご縁でスタートしました。それからある財団の非常勤理事を務めているのですが、それも以前インタビューした社長さんからお声がけいただいたことがきっかけでした。私の経歴を見た方は、『いろんなことをやっているね』と驚かれますが、全部つながっているんです」
自分にできることを常に模索し、精一杯に取り組み続けたかつての少女は、その努力の果てにいくつもの幸運を手にし、恩返しの後半生へと進む。
人生全て塞翁が馬。よくできた映画を観るがごとく、人生の伏線を見事に回収し続ける江連氏が、今後どんなユニークなジャンルに挑戦されていくか楽しみだ。
Next Frontier
FRONTIER JOURNEYに参加していただいた
ゲストが掲げる次のビジョン
“「恩返し」をキーワードに、お世話になった方々に報いていきたい”
編集後記
運とは、人との縁から拓けていくもの。そしてその縁は、何もせずにやってくるものではないことを、取材を通して改めて気づかされました。
江連さん本人も、そんな縁が途切れないように努力をされていると明かします。
「お礼のメールを書くようにしたり、折にふれて『最近どうですか?』ということだけでも、こちらから連絡するようにしています。それから、何か聞きたいことがあったときは、『あの人に聞いてみよう!』と思いつけば、躊躇なく連絡してしまいますね」
地位を確立している人も、そこにたどり着くまでの経緯を紐解けば、地道なことの積み重ね。そんなことをしみじみ感じた取材となりました。
いかがでしたでしょうか。 今回の記事から感じられたこと、FRONTIER JOURNEYへのご感想など、皆さまの声をお聞かせください。 ご意見、ご要望はこちらfrontier-journey@sunfrt.co.jpまで。
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