Vol. 019
「ここから、新たな物語をはじめたい」。
娘とともにウクライナから異国の地に
たどり着いた
希望へのジャーニー
ウクライナから避難してきた
Maria Khomiakさん
2022年12月2日
ウクライナから避難した人々のコミュニティ「ウクライナカフェHIMAWARI」をハブに、Frontier JourneyのVol.16ではアーティスト中山誠弥さん、Vol.17ではHIMAWARIを主催する日本YMCA同盟スタッフと、イベントを支える側の想いにフォーカスしてきた。今回Vol.19で紹介するのは、そんな彼らの想いに支えられた当事者の一人、ウクライナ人のMaria Khomiakさんだ。
ロシアのウクライナ侵攻から既に10ヵ月近くが経とうとしている。日本でも継続的な報道は続いているが、私たちが遠い海の向こうの複雑な歴史的背景、そこで生きる人々の日常を知る機会は限られている。
今回、インタビューに答えてくれたMariaさんは、2014年にロシアに併合された地域、クリミア半島の出身だ。彼女の背負うナラティブは、私たち日本人が抱くウクライナから避難する人々の一定のイメージを必然的に広げるものだった。そしてその先に明るい景色を予感させてくれるという、想定外のものでもあった。
複雑な歴史背景を持つ地で生まれた少女の物語。
故郷への想いとは
Maria Khomiakは、2022年4月、娘とともに日本の地を踏んだ。
ウクライナの首都キーウで生まれ、2014年にロシアに併合されたクリミア半島で育つ。同地でのさまざまな対立は、彼女の人生に深い闇を落としている。
「ウクライナの混乱、そこで生きる私たちの複雑な状況は、決して今にはじまったことではありません」
ヨーロッパの歴史上、たびたび戦火にさらされてきたクリミア。併合以前から、民族間でアイデンティティの衝突が日常だったという。
「私が生まれたころは、クリミアはまだウクライナ領でしたが、近所の人のなかでも、ここはロシアだと主張する人もいました。私自身は母国が大好きですし、ウクライナ人であるというアイデンティティを持っています。でも、そのことで家族とぶつかることもある。たとえば母方の祖母はロシア語しか話しません。彼女と話をするときは、『元気?』『元気だよ』くらいしか会話ができない。家族のなかでもアイデンティティがちがっているんです。私が育ったのは、そういう非常に複雑な土地です」
常に争いの予感に満ちた地で育つこと――多くの日本人にはなかなか想像がしがたいだろう。そんな複雑な環境ではじまった彼女の人生は、困難の連続だった。
「私の母がドキュメンタリー番組の制作者としてキーウのテレビ局で働いていたため、14歳までクリミアの祖父母のもとで暮らしました。クリミアで争っている人たちが、いったい何をどうしたいのかが、子どもだった私には全然わかりませんでした」
平穏に日常が続いていく、という安心感とは縁遠い幼少期。
クリミアでの暮らしは「トラウマが多く、あまり語りたくない」と言葉を濁す彼女。しかし、意に反してその後もクリミアを出ては結局育った地に戻る、ということを繰り返すことになる。
「14歳のときにクリミアを出て、キーウで母と同居したのですが、母との関係がなかなかうまくいかず、一人暮らしをするために家を出ました。その後クリミアに戻って結婚しましたが、結婚生活は8ヵ月しか続かなかった」
当時、すでにクリミアはロシアに併合されたあとだった。混乱を避けたいという気持ちもあり、再び故郷を離れ、キーウの大学で言語学を学ぶが、挫折。再度クリミアへ戻ることに。そこには、常に故郷に対する愛憎が入り混じった複雑な感情があった。
「私の人生は、いつも結局クリミアへ戻ってしまうんですよね。クリミアは非常に美しい街なんです。きれいな海があって、自然が豊かで。日本に来てから東京の奥多摩の森林にドライブをしたことがあったんですが、美しい森林の風景があまりにも故郷に似ていて、泣いてしまったんです。だから、やっぱり私はクリミアが大好きなんですよね」
「人を愛することができるなんて」。
人生観を変えた娘の存在
その後、再婚するが、やはり結婚生活は破綻してしまう。
「2番目の夫との関係は今も良好で愛し合っていますが、それだけでは夫婦生活はうまくいかないものです。もともと私は誰かと生活することに向かない人間だったのだと思います。自分が人に何かをあたえるのも苦手だし、誰かに頼るのも苦手でした。“恩”のやりとりを重荷に感じていたのです」
「自分に自信がないから」と、険しい表情で語るMariaだが、娘のアリスに話が及ぶと、とたんにやさしいトーンになる。
「今は5歳になったばかりの彼女によりよい人生を歩んでほしい、という気持ちが一番大きい」と愛おしさいっぱいに語るMaria。彼女を産んだことで、彼女の人生は一変したという。
「アリスが生まれて、私の人生で初めて『他人のために』という気持ちが持てました。彼女に何かを捧げることに対しては、何のとまどいもない。だってアリスに命をあたえたのはほかでもない私自身だから。私がこんなに人を愛することができる人間だったなんて、思ってもいませんでした」
戦禍の地を脱し、東京へ。
多くの人に助けられた日本へのジャーニー
ロシアの攻撃を発端に、ウクライナが戦争の混乱へと突入していったのは2022年2月。当時Mariaは、単身UAEのドバイで働いていた。
「ロシアの攻撃は、にわかには信じられませんでした。とにかく一度ウクライナに戻って子どもを避難させなければ、と。最初にとれたチケットで単身アムステルダムに飛び、そこからウクライナ隣国のポーランドに入りました。でもポーランドからウクライナに入国するのが本当に大変で」
国境を超えるためにボランティアの協力を得て、さらにはヒッチハイクで戦火のキーウにたどり着くことに成功。2日がかりの行程となった。
キーウでは外出禁止令が発令されているなか、娘を連れ、その日のうちにキーウからポーランドへ電車で引き返し、ワルシャワ経由でドバイへ戻る。
しかし必死に逃げ込んだドバイは、Mariaに冷たかった。
「『娘を抱えて帰ってきて、どうやって働くつもり?』と。ドバイは安全だし、仕事もある。やっとの思いで戻ってきたのに子どもがいたら働けない、なんて。そんな途方に暮れていた時に、友人からSNSのメッセージが届いたんです。『日本が国境を開いたって言ってるよ』って!」
Mariaがそれをまたとない吉報と捉えたことには、ちょっとしたわけがある。
「実は私、小さいころからアジアのカルチャーに夢中で、私が“アニオタ(アニメオタク)”だということは、友人みんなが知ってます(笑)。ドバイで働いていたときも、ここで足固めをしたらいつかアジアで暮らしたいと考えていました。だから日本が国境を開いたと聞いたときは、もうマジー!?って(笑)。しかも日本大使館は、隣の駅にある。すぐさま飛んでいきました」
アポイントもなしに、体当たりで大使館に押しかけ、面談の機会を得ることに。避難者としてのビザの取得は一筋縄ではいかないが、執念で入国許可の取得に成功した。
「でも飛行機のチケットを買うお金がなかったんです。UAEに滞在できるビザは残り1ヵ月。手持ちのお金は400ドルしかありません」
息詰まる展開のなか、まるで映画のような奇跡は続く。
「私のSNSの投稿を見て、いろんな国の見ず知らずの人が送金してくれたんです! 助けてくれた人のなかにはウクライナ人もいるし、ロシアの人もいました。本当に多くの人が、私とアリスのジャーニーを応援してくれたんです」
敵・味方に関係ない支援。幼少のころから困難続きだったMariaの人生で、それは思いがけない福音だった。
娘の笑顔を支えに、
異国でのカルチャーギャップに奮闘
長い旅路の果てに2022年4月、日本の地を踏んだMariaとアリス。そこから7ヵ月経った現状を問うと、「実は、かなりキツい」と苦笑いする。
生活していくうえで、ウクライナと日本のカルチャーギャップは想像以上に切実なものだった。
「みんな優しいし親切だし、助けようとしてくれるのはわかるんです。ウクライナから来た、と明かすと、誰もが心配してくれますし。でも私は日本語が話せないから、コミュニケーションができない。お店に行っても、欲しいものがどこにあるかを聞けない。さらに私が苦労している姿を見ることが、日本の人にとっては居心地が悪くなってしまうみたいなのです。それでお互いに気まずくなってしまう、ということが何度もありました」
アパートの申し込み、マイナンバー申請、保険の登録、幼稚園の書類……異国での生活を一から築いていくために、さまざまなシステムや書類の渦に立ち向かわなければならない。提出先の組織に英語が話せる人がいないということも多々あった。
「私一人じゃ無理!と投げ出したくなることも何度もありました。でも何回もそういう経験をして、やっと私も彼らの言っていることが少しずつ理解できるようになり、翻訳ソフトを使ったり、ジェスチャーをしたりと工夫してなんとか意思疎通がとれるようになってきました。だから今は、前よりも少しよくなってるかな」
たったひとり、日本の地で孤軍奮闘する彼女の心の支えとなったのは、やはり娘アリスの存在だった。
「子どもの順応は早いですよね。彼女は日本の幼稚園に通っているのですが、友だちが出来て、日本語もどんどん覚えています。最初はウクライナに帰りたいと言って泣くこともありましたが、その頻度は減ってきています。むしろ日本での暮らしを居心地よく感じているみたいです」
アリスの笑顔が、異国の地でのMariaの足を前に前に進ませる。
「彼女に、私と同じような幼少期は体験させたくないんです。彼女が生まれたクリミアは、すでに私たちが生きていける場所ではなくなってしまいました。私はもう二度とクリミアに戻らなくてすむようにしたい。今度こそ、閉じた扉はそのままにしておきたい。そのためにも、今日本ではじめたこの生活を早く安定させなければと感じています」
「手を差し伸べてくれた事実を残したい」。
希望を未来へつなぐために
さらに今、思わぬところから新たな希望も芽吹きはじめている。日本の映像制作会社から話があり、ウクライナから避難してきた人たちについてのドキュメンタリー映画製作に協力できるかもしれないのだ。
「母の仕事を手伝ってドキュメンタリー制作をした経験はありますから」と、Mariaはキラリと目を光らせる。
「制作会社の方に『私にもアイデアがある』、と伝えたんです。どうして私たちが今ここで生きているのか、私たちがウクライナをどう捉えているのか、未来をどう考えているのか、そしてこれから人生をどう変えていこうと思っているのか。伝えるべきことはたくさんある。実はプロジェクト実現のために、すでにいろいろと動いているんですよ。インタビュー用のピンマイクを用意したり、私が仕事をする間、アリスを見てくれる人を見つけたり。今はインタビューをするための場所探しの段階です」
顔を輝かせ、イキイキとプロジェクトのビジョンを明かしてくれるMaria。避難をしてきた当事者がつくるドキュメンタリーというのは興味深い。いったいどんな内容になるのだろうか?
「まずは日本の人たちに感謝を伝えたいんです。こんなに私たちを援助してくれる国って、そんなに多くはないと思うから。もちろんウクライナ人だって、いろんな人がいます。ウクライナ人にとっても文化の異なる国で生きていくことは、いろんなハードルがあると思います。でも、たとえ今後そういった個々人の事情が表面化したとしても、この国がしてくれていること、しようとしてくれる気持ちは消えません。この事実を風化させないために、今から残していくべきことはたくさんある」
そして、「作品を通して、人生とは一つの景色ではないと、アリスに伝えたい」とMariaは前を向く。
「アリスに人生の多様な彩りを伝えていきたいと思います。人生は悲しいことがあっても、それだけで真っ黒に染まってしまうわけではなくて、さまざまな色合いがある。悲しいことがあったからといって、すなわち悲しい人生になるわけではない。なぜなら、私たちには感情があるから。出来事をどう受け取るかは自分自身です。誰がどんな物語を持っていて、そこにどんな思いが込められているかを伝えたい。そのためには、まず話を聞き、相手を理解しなければなりません。これが、ウクライナ人である私が今やるべきことだと思っています」
戦争をきっかけに、異国の地でリスタートを切ることを余儀なくされた多くのウクライナ人たち。その現実は厳しいものだが、そこからどんな物語を紡ぐかは、各人に委ねられている。
「まずは、『あなたの物語を聞かせて』と伝えたい。そして私以外のウクライナ人にも、新しい人生を歩んでほしいと願っています」
困難の連続だったはずの人生を、前を向いて明るく歩んでいく糧にしたMaria。そのポジティブなまなざしで、日本という地から始める新たな第一章は、希望に満ちた物語にちがいない。
アリスとともに、日本で幸せな物語を紡いでいけるように。私たち日本人にできることは、まずはMariaが語る通り、彼女たち一人ひとりの物語に耳を傾け、風化させないことだろう。
Next Frontier
FRONTIER JOURNEYに参加していただいた
ゲストが掲げる次のビジョン
“私たちウクライナ人一人ひとりの物語を、
ドキュメンタリーを通して伝えていきたい”
編集後記
ドキュメンタリー制作に意欲を見せるMariaさんのいきいきとした表情には虚を突かれた思いがあり、知らず知らずのうち、避難してきた人=故郷を追われた悲しい人々という先入観を持っていたことに気づかされました。今後、彼らが日本社会で自立していく過程で、ときには日本人とぶつかることもあるかもしれません。しかし、受け入れられるウクライナ人/受け入れる日本人という秤ではなく、お互いの幸福のために大きな夢を抱き、共創の心をもって未来に繋げていくことこそ、戦争によって深い闇にかかった人たちに色彩りを与えられるきっかけになるのではないでしょうか。
いかがでしたでしょうか。 今回の記事から感じられたこと、FRONTIER JOURNEYへのご感想など、皆さまの声をお聞かせください。 ご意見、ご要望はこちらfrontier-journey@sunfrt.co.jpまで。
FRONTIER JOURNEY メルマガ登録はこちら!
Voice
基本的にVoiceでお送りいただいたコメントはサイトに掲載させていただきます。
ただし、内容によっては掲載されない場合もありますので、ご了承ください。